うたかたに刻む(第6版) - 2/2

1.はじめに
2.あらすじ(プレイヤー向け)
3.シナリオ背景
4.主要NPC
5.導入
6.谷土村へ
7.地震
8.粟嶋神社
9.NPCとの会話
10.宇多川家の調査
11.消えた真琴
12.泡生大神
13.結末
14.附録:時系列

3.シナリオ背景

 舞台となる谷土(たにつち)村は、古来よりドリームランド、あるいはン=カイと繋がりやすい土地柄であり、地底にはアブホースが部分的に存在している。
 江戸時代初期に発生した地震により地下の裂け目が広がり、現在「あわいの岩屋」と呼ばれる洞窟が生じると、各地を放浪していた宇多川家の先祖はこの地にアブホースを見出す。淡島願人を自称していたのは世を忍ぶ仮の姿であり、その実態は邪神を崇拝する狂信者だったのだ。
 彼は村の社を粟嶋神社と改め、表向きは粟嶋明神(あわしまみょうじん)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祭神としながらも、密かに泡生大神(あぶくおほすおおかみ)、すなわちアブホースを崇めるようになった。信仰の中で一族はアブホースに肉体の一部を置換され、あるいは落とし子をその身に宿し、忌まわしき血を引き継いでいく。それは同時に落とし子の、親神から逃げ延びるという本能を血に刻むことでもあった。結果として宇多川家の信仰は、アブホースを土地に留めたままその意識を微睡ませ続けるという歪な形となり、「鎮めの儀」を行い生贄を捧げながら現代まで続いていく。
 時を経て、呪わしき家系の末に生まれた少女ことりは、アブホースに偶々気に入られたがために心臓を抜き取られ、代わりに神格の体の一部と入れ替えられることとなる。数奇な運命を経て、今は落とし子となった心臓は探索者へと移植される。訪ねた村で起こる、神格の目覚めを予兆する地震。探索者は真琴の、そして自らの真実と向き合うことになる。

4.主要NPC

■宇多川 ことり(うたがわ ことり)
 探索者の心臓移植のドナーとなった少女。享年7歳。生前は活発な性格で、一人で「あわいの岩屋」を探検したためにアブホースと邂逅し、心臓を神格の分身と入れ替えられることとなる。本体から切り離された分身はやがて落とし子としての自我を得るが、この個体は人間の心臓としてあり続けることを選ぶ。知性も低く小さな体のまま外界を彷徨うよりは、仮宿にせよ宿主の体の一部として生きた方がアブホースから逃れられる公算が高いと判断したのだ。
 しかしある日、地震の影響で地底の入り口が広がったために、ことりは落とし子と共にアブホースの精神感応を受け、揺れの収まらない中母親の制止を振り切り家を飛び出してしまう。瓦礫の下敷きになり脳死と判定された彼女の心臓は、探索者へ移植されるに至った。
 シナリオを通して探索者の目に映ることりは、基本的には探索者の心臓が見せる幻覚である。アブホースの落とし子が意思を表出させる際、少女の人格と姿を取るのだ。時にテレパシーで受け取った親神の意思を反映して、母の許へと還るよう探索者を糾弾する。一方でアブホースの影響下にない時には、捕食から逃れるために探索者に協力することもある。逆に探索者が不浄なる父母にその身を捧げようとするならば、奇妙な共生関係は儚くも終わりを告げるだろう。
 なおシナリオ中のことりの発言のうち「ママ」とは真琴のことを指しているが、「おかあさん」は母なるアブホースを意図した呼びかけである。

宇多川ことり、泡沫の心臓の少女
(生前の能力値)
STR 6   CON 9   SIZ 6   INT 14
POW 11  DEX 15   APP 14  EDU 2
正気度 - 耐久力 -  

■宇多川 真琴(うたがわ まこと)
 ことりの母親。探索者とは20歳程度年が離れている。たおやかな印象を与える女性だが、その言動の端からは芯の強さを感じることができる。
 身寄りのない彼女は、夫の貴幸に先立たれてからも嫁ぎ先の谷土村で娘と暮らしていた。しかしことりは事故により脳死判定を受けてしまう。愛娘を守れなかったことで真琴は自分を責めながらも、その生きた証がどこかに残ることを祈り臓器提供に同意する。結果ことりの心臓は探索者へと受け継がれることになった。本来臓器移植のシステム上ドナーの情報がレシピエントに伝えられることはないが、探索者が真琴と知り合ったきっかけはプレイヤーがある程度自由に設定してかまわない。
 娘の心臓が今も鼓動を刻んでいることを心の支えにしていた真琴だったが、数ヶ月前に届いた移植執刀医からの手紙を契機にその願いは脆くも崩れ去る。手紙を見せ相談した有彦から伝えられたのは、本物のことりの心臓は神格に奪われているという事実だった。希望を失った彼女は有彦の「娘と同じ所に行く術がある」との言葉に縋り、アブホースへの次の生贄に志願している。
 探索者のことは、「○○くん/ちゃん」と呼ぶ。娘の心臓を移植された相手であることから、自然と実の子のような愛情を抱いているが、迷惑にならないようにと過度に表に出すことを控えている。その感情は、心臓が娘のものではないと知った後も変わらない。自責の念に押し潰されそうな彼女を思いとどまらせることができるとすれば、それは探索者だけだろう。 

宇多川真琴、後悔を抱えた母
STR 10    CON 13    SIZ 10    INT 12
POW 13   DEX 11    APP 14   EDU 14
正気度 45  耐久力 12
ダメージ・ボーナス:+0
技能:製作(家事) 60%、説得 30%、歴史 30%

■宇多川 有彦(うたがわ ありひこ)
 真琴の夫である貴幸の兄で、ことりの伯父にあたる。粟嶋神社の宮司を務める男。東京で医大を出た後実家の神職を継いだ異色の経歴の持ち主であり、穏やかな人格者として村では尊敬の念を集めている。しかしその心中にはアブホースの落とし子の血に由来する、自分だけは親神の糧とならず生き延びたいという衝動が強く根付いている。
 先祖と同じくアブホースへの信仰を続けると同時にその目覚めを防ぐことが彼の使命であり、そのためなら多少の犠牲を厭わない。生贄を捧げ続け、アブホースが永久に微睡んだままであることが村を守るためにも最上の手段だと妄信し、いかなる説得にも応じることはない。
 余談だが、彼は若い頃に精子バンクに登録しドナーとなっている。自らの血を受け継ぎアブホースの贄となるべき子供たちが、いつか親神の呼び声に応じて村に戻ってくると信じているのだ。
 探索者のことはただの姪の友人だと認識しているため、あくまで客人として扱う。しかし探索者が自らの心臓の来歴を告白することがあれば、シナリオ終了後も彼は探索者と接触を持とうとするだろう。

宇多川有彦、狂気を受け継いだ男
STR 13    CON 13    SIZ 12    INT 16
POW 12   DEX 10    APP 12   EDU 18
正気度 0  耐久力 13
ダメージ・ボーナス:+1D4
技能:言いくるめ 65%、医学 70%、オカルト 50%、信用 70%、図書館 50%、薬学 50%、歴史 60%、クトゥルフ神話 15%

■宇多川 貴幸(うたがわ たかゆき)
 宇多川ことりの父親で、作中ではことりより以前に亡くなっている。学生時代のバイク事故により片脚を不自由にした男。
 前述の事故により次代の生贄として生涯を終える予定だったが、真琴との結婚、ことりの誕生を経て内心に変化が生まれる。この風習を終わらせ、子孫に引き継がせまいと神格を退散させる方法を独自に研究するようになる。研究の成果を手帳に密かに書き残していたが、作中以前、「不幸な事故」によりこの世を去る。

5.シナリオの導入

 探索者が夢を見る場面からシナリオは始まる。
 雲一つない青空の下に探索者は立っている。陽光が黄金色の花畑を美しく照らし出し、柔らかく暖かい微風が頬を撫でる。まるで天国のような光景だ。
 青く澄んだ川の対岸に、幼い少女の姿がある。歌い遊んでいた彼女はふと探索者の方を向く。少女は口を開き、探索者へと話しかける。表情は見透せず、声も聞こえない代わりにやけに自分の心臓の音が耳につく。探索者は不思議と彼女の言葉を克明に理解できる。「かえして」と。
 途端に心臓を鷲掴みにされるような衝撃と僅かな郷愁を覚えながら探索者は目覚める。電車やバスでうたた寝をしていた、朝起床したなど、探索者の背景によって演出を行うとよい。
 楽園を思わせるような夢の実情は、アブホースによって引き起こされた幻影だ。落とし子が受けた精神感応により、夢の形をとって探索者を神の御許へ誘い込もうとしているのだ。その影響で心臓はいつもよりも早く鼓動を打っているが、少し経てばいつも通り落ち着く。
 落ち着いた頃、探索者へ真琴から電話が入る。彼女は探索者の体の調子や最近の出来事を尋ねた後、「良かったらまた今度、遊びに来てもらえると嬉しいんだけど……例えば、今度の週末とかどうかしら」と切り出す。〈アイデア〉に成功すると、探索者のかつて幼い頃、ちょうどその日に移植手術を受けたことを思い出す。つまり電話の主にとっては、一人娘を喪った命日でもあるということに気が付くだろう。
 この時点での真琴は、もう間もなくアブホースに「呼ばれる」ことになるとは思っていないが、いずれ生贄となることは覚悟している。探索者を招待したのは、探索者との思い出を作りたい(以降は自然に接触を減らしていく予定だった)、そして願わくばことりのことを探索者に自分の死後も覚えていてほしいという彼女なりの最後のわがままのつもりである。
 食べたい食事のリクエストを聞くなどした後、名残惜しそうに真琴は電話を切る。招きに応じた探索者は、彼女の住む谷土村を訪れることとなる。

6.谷土村へ

 谷土村は沿岸部の平地に位置する小さな村で、探索者の自宅からは電車とバスを乗り継いで3時間ほどかかる。探索者が事前に谷土村について調べていれば、明治から昭和にかけては天然ガスの採掘が盛んだった村で、近年は目立った産業はないものの田舎暮らしを目的とした移住者が徐々に増えつつあることが分かる。これにはアブホースのテレパシーによる効果も関与しているかもしれない。
 探索者が最寄りの停留所でバスを降りるのは約束した日の昼過ぎになる。バス停では既に真琴が到着を待っており、探索者の姿を見るや嬉しそうに駆け寄ってくる。労いの言葉をかけた後、真琴は自宅へ探索者を案内する。
 バス停から真琴の家までの風景を見れば、中央線もない道路に家が点在しているだけの村だ。昼下がりの清々しい空の下を、どこかの浜辺から運ばれてきた磯の香の混じった風が吹く。探索者は、何の変哲もない風景にも不思議と郷愁と安心感を覚える。

《真琴台詞例》

「○○くん/ちゃん、久しぶりね。疲れたでしょう?」
「早く○○くん/ちゃんに会いたくって来ちゃったの」
「さて、行きましょうか。荷物半分持つわね」
「本当に何もない田舎でしょう?私もそう思って嫁いできて……結局居ついちゃったなぁ」
「あまり何にもない村だけど、ご飯は腕によりをかけて作るから、楽しみにしていてね」

 真琴の家は結婚後に建てられたもので、探索者の年齢と築年数のさほど変わらない二階建ての家屋だ。この村の家の中では比較的新しい。真琴は探索者を招き入れ、ダイニングテーブルでゆっくりするよう促す。その際「お帰りなさい……なんてね」とやや遠慮がちに声をかける(演出については探索者と真琴との距離感によって変えても構わない)。
 真琴はお茶の支度を始める。ダイニングテーブルに2人分の飲み物や茶菓子を置いた後「ことり、貴幸さん。○○くん/ちゃんが来てくれたのよ」と声をかけ、白木で作られた神式の仏壇のようなものの前に置く。神社で見かけそうな外観の観音扉が設えられた小さな廟だ。〈知識〉か〈オカルト〉に成功すると、それが祖霊舎(みたまや)と呼ばれ、神道において祖先の霊を祀るための仏壇にあたるものだと分かる。以前に真琴の家を訪ねたことのある探索者なら知っている可能性が高いだろう。ロールなく知っていてかまわない。祖霊舎にはフォトプレートが立てかけられている。写真には今より若い真琴と、夫らしき杖をついた男性、そして3歳ほどの幼い少女が写っている。その容姿は探索者が夢で見た少女の面影がある。
 祖霊舎に茶菓子を供え終わると、真琴も席につく。一時の間探索者との会話を演出するとよい。探索者が祖霊舎への礼拝を希望するなら真琴は快く受け入れ、その様子を穏やかに見守っている。探索者が真琴やことりに対して申し訳なさそうな態度を取るなら、「あなたの周りの人たちは皆、あなたが生きてくれているということが、それだけで宝物なのよ」と励まし、逆に探索者に対して感謝の言葉を述べる。

 一息ついた頃、インターホンが来客を告げる。真琴は探索者へ断って玄関先へと出て行き、玄関の引き戸を開ける。
 待っていると誰か男性と応対する声が聞こえ、真琴が神職姿の宇多川有彦と連れ立って探索者のいる居間へと戻ってくる。探索者に気付くと有彦は来客中の訪問を詫び、「少しだけお邪魔しますよ」と探索者に声をかける。そしてまず台所にある神棚に、続いて祖霊舎の前で。祝詞を唱える。祈祷を済ませると、男性は探索者へ「突然で驚いたでしょう。今日はここの家の子の命日だったので、こうして拝みにきたんです。お経のようなものだと思ってください」と事情を説明する。真琴は「お義兄さん、ありがとうございました」と感謝を述べる。有彦がその場を辞すと、真琴は事情を説明する。

《真琴台詞例》

「さっきの人はね、ことりの伯父さんにあたるの。この近くの神社の宮司さんなのよ」
「私は親戚は殆どいないけれど、夫が死んでからもよくしてくれて、命日にはああして来てくれるの」
「私の他にもことりのことを忘れないで、お祈りしてくれる人がいる。とても嬉しいことね」

7.地震

 このイベントは有彦の訪問が終わった少し後に発生させる。
 ダイニングで真琴と会話していた探索者は、突如強い揺れに見舞われる。突き上げられるような強い縦揺れを感じ、立っていることもままならない。それが地震だと認識するのと同時に、探索者は温かい真琴の腕に抱き締められる。揺れが収まると、真琴が探索者に覆い被さるような体勢で蹲っていたのだと把握できる。
 周囲には食器や本が散乱しているが、耐震固定のおかげで家具が倒れず、2人に怪我はない。ただし、探索者は自身の心臓が早鐘を打っているのを感じ取るだろう。
 真琴の顔色は青ざめ、探索者を心配そうに見据えている。また、地震が収まっても探索者の手を強く握っている。この際〈心理学〉に成功すると、彼女が揺れの恐怖とは別の不安を抱いているように感じられる。まるで探索者から片時も目を離さないように注意しているかのようだ。

 真琴は手を震わせながらも「大丈夫よ、怖がらせてごめんなさいね。一度、避難所に行きましょうか。また余震があるかもしれないし」と気丈に振舞い、避難所に向かうことを提案する。探索者が渋るようなら津波の可能性を匂わせてもよい。探索者が同意すれば2人は避難所へと急ぐこととなる。この時、真琴がガスの元栓を止めるなど外出の際安全に気を配っている様子を描写するのがいいだろう。
 外に出ると幸い2階建ての家屋の屋根や壁が崩れている様子はないことが分かる。道路が所々罅割れたようになっているが、大きな損壊個所はない。

8.粟嶋神社

 小高い丘の上にある粟嶋神社の寄合所が村の避難所だ。真琴は道すがら、有彦の家系が代々宮司を続けてきた神社なのだと話す。石階段を上って行くと、小ぢんまりした、しかし整備された神社が目の前に現れる。道行きの途中からは他の村人も境内に向かっていることが確認できる。
 鳥居の傍らに石彫りで神社の名が記されている。神社の境内には手水と小さな本殿。その横には由来や祭神を記したらしい木札が立っている。境内の隅には古井戸がある。

◆木札

 縁起について記された木札を確認すると、以下のように読み取れる。

■粟嶋神社縁起
御祭神 粟嶋明神(あわしまみょうじん)、伊邪那美命(いざなみのみこと)
小社は古来より伊邪那美命を祭る神社として、地域の信仰を集めてきました。
慶長十九年、淡島願人が霊夢により当地に粟嶋明神を勧請して後、粟嶋神社と名を改めています。
今日に至るまで厄除け、子授け、安産、婦人病、病気平癒、縁結び等のご利益を求める多くの参拝客を集めています。

 〈歴史〉か〈オカルト〉に成功した場合、以下の知識を知っている。有彦に神社の縁起について尋ねた場合も、同様の情報を入手できる。なお、「伊邪那美命」については〈知識〉に成功した場合も知っていてよい。

■粟嶋明神(あわしまみょうじん)
淡島神とも言われ、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の国生みで蛭子の次に生まれた子。不具だったために葦船に乗せて流された。異説では少名毘古那神(すくなびこな)と同一視され、粟島から常世国に渡ったことから、粟島は黄泉の入り口とも解される。

■伊邪那美命(いざなみのみこと)
日本神話に記される女神。伊邪那岐命とともに数多の国、神を生むが火の神迦具土(かぐつち)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなる。死後は黄泉国の主神となる。

■淡島願人(あわしまがんにん)
江戸時代に淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて回った半俗の宗教者。その信仰の中心は和歌山市の加太淡嶋神社で、女性からの信仰が厚い。

 真琴は粟嶋神社の来歴に詳しいわけではない。探索者から質問を受けた場合は、「確かことりの部屋に絵本があったから、それを読むと分かりやすいかもしれないわ」と本を読むよう勧める。また、探索者が神社に興味のあるような素振りを見せると、ことりも神社が好きでよく遊びに行っていた、と懐かしそうに語る。

◆井戸

 境内の隅に向かうと石造りの苔むした古井戸がある。井戸の横の立て看板には「浄土の井戸」と記され、以下の説明書きが読み取れる。

■「浄土の井戸」
粟嶋神社の古井戸は、浄土の井戸と呼ばれ、冥府の底に繋がっているという言い伝えがあります。
冥府の出入りに使われたとの伝説があり、谷戸の七不思議のひとつとして知られています。

 古井戸を覗き込んでも暗闇を見通すことはできない。少なくとも、水は枯れてしまっているように見える。井戸を覗き込んだ探索者には〈聞き耳〉を振らせること。成功した場合石組みの井戸の隙間からのヒュウヒュウという風の音に混じって、何かが泡立つような音が微かに聞こえてくる。


ぼこ、ぽこ、ぼこ。
何故だか懐かしいような恐ろしいような水泡の音。
聞いているうちに、あなたの胸が酷く締め付けられる。
ここに居てはいけない気がする。
………けれど。
ここに帰ってこなければならなかったと感じる。
相反する想いが、何処かから湧き上がる感傷が、思考を攪拌させ、あなたの正気を揺るがしていく。

 探索者は0/1D2正気度ポイントを失う。
 この井戸のはるか地底にはアブホースが眠っており、探索者(正確にはその中のアブホースの落とし子)が感応による影響を受けている。代々の宮司はこの井戸から「鎮めの儀」を行う周期を判断していた。また儀式に先んじて使用する秘薬の原料であるアブホースの胞子も、この井戸の底に分布する地衣類から採取している。

◆寄合所

 普段は村の寄合所として使われている畳敷きの大部屋に、老齢の村人を中心に十数人ほどが集まっている。何人かは自宅の方へ戻って行く姿もある。広間のテレビではニュースキャスターが地震速報を読み上げていて、谷戸村は震源地からは外れており震度は4~5相当だが今の所目立った被害は出ていない。津波の心配もなく、大規模な余震も今の所発生していないことが分かる。
 避難所では村の高齢者たちが鬱憤の見える表情で、小声で井戸端会議を繰り広げている。彼らに話を聞くか〈聞き耳〉に成功すれば以下の情報を入手できる。
・村周辺の地下は昔から天然ガスが湧出していて、昭和の頃には採掘が行われていた。今は開発が打ち切られたが、長年地下水に含有される天然ガスを採掘したせいで地盤に影響が出ており、地震が頻発したり、他の地域より揺れが大きくなったりすることが今でもある。
・村の地面や池からは現在でもガスが湧き出すことがある。
・今回の規模の地震が起きたのは久しぶりである。(詳しい年を聞けば、宇多川ことりが亡くなった年だと分かる)
 この時真琴の様子に気を配っていれば、老人たちが過去の地震の話をした際に表情を曇らせたことに気づくことができる。〈心理学〉か[〈アイデア〉/2]に成功すると表情の変化から、ことりの死には過去に起きた地震が関係していたのではないか、と分かる。

◆有彦との密談 

 地震の心配がひとまずなくなると、真琴は家に戻ることを提案する。帰り際に有彦が現れ、真琴を手招きして呼び出す。2人は探索者から距離をとり、真剣な表情を浮かべ小声で話し始める。〈聞き耳〉に成功すれば、有彦は真琴に薬を飲んでいるかを確認した上で、「先ほどの地震で目覚めが早まる可能性があります。想定より早く、近いうちに呼ばれるかもしれません」と話すのを聞き取ることができる。
 〈聞き耳〉の結果にかかわらず、最後に真琴が「分かりました。やっと、やっと行けるんですね、ことりの所に」と呟いた絞り出すような声を探索者は耳にする。また、有彦と別れた後の彼女はどこか思い詰めた様子にも見える。

9.NPCとの会話

 ここでは探索中に接する可能性のあるNPCとの会話についてふれる。

◆真琴

 有彦との密談以降、彼女に事情を聞こうとする探索者もいるだろう。神社での会話を聞いていた探索者は真意を聞き出そうとするかもしれないが、彼女は「地震も落ち着いたからことりのいる家に帰りますって、お義兄さんと話していたの」とはぐらかすばかりだ。
 探索者が情報を十分得ていない段階で彼女を説得することは不可能だ。真琴は心配をかけていることを謝罪し、探索者と天国にいるだろうことりに心配をさせているだろうことについて「駄目な母親ね」と自嘲するように呟く。
 真琴との対話にあたって、キーパーは基本的には彼女を「理想的な母親像」として描写するとよいだろう。彼女はことりを、そして探索者を心から大切に思っており優しく親身に接する。
 一方で彼女は「完璧な理想の母親」ではなく一人の人間である。探索者やその両親に遠慮して探索者を自分の子供のように扱うことはしないものの、つい「おかえりなさい」と呼びかけてしまう。せめてもの懺悔と供養のために娘の心臓と同じ場所に行きたいと願う気持ちの内にも、絶望ゆえの逃避が全く無いとは言い切れない。
 そうした真琴の弱さやエゴイスティックな部分は、通常彼女の芯の強さゆえに押し隠されている。キーパーはそれらを表に出しすぎないよう注意しながらも、探索者との会話の流れによっては仄めかしてもかまわない。

真琴の知っている情報
・ことりの心臓は神格に入れ替えられたものであり、それが探索者に移植されていること
・ことりの絵日記帳の記述(ただし、医師から手紙を受け取り有彦に相談するまでは、子供にありがちな現実と空想が混ざった日記だと考えていた)
・宇多川家が古来から生贄によって神を慰撫し鎮めてきたこと(有彦には恐ろしい神から村を守るために必要な犠牲なのだと言われている)

真琴の知らない情報
・貴幸の手記の内容(真琴はことりを一人でも立派に育てると墓前に誓ったにも関わらず果たせなかったことから、貴幸の思い出に触れることを避ける傾向にある)

◆有彦

 宇多川有彦は日中粟嶋神社で会うことができる。ことりの友人だと認識しているため、探索者へは基本的に当たり障りのない態度で接する。
 宮司として神社の謂れや祭神について尋ねられれば、表向きのものを答える。また、ことりの死に関する詳しい経緯を聞き出したい場合は、交渉系の技能に成功すれば有彦は口を開く。もちろん、探索者へ話すのは地震の直後真琴の制止を振り切って飛び出した結果、上から落ちてきた瓦礫に頭部と下半身を押し潰されたというあらましのみだ。
 姪の心臓を受け継いだレシピエントだと察した場合、有彦の探索者への関心度は上昇する。表には出さないものの、探索者を次なる生贄の候補と認識するためだ。シナリオ終了後もその動向を知っておきたい、と考えるだろう。探索者が真琴を救うために尽力することを訴えかけるならば、真琴の代わりに探索者が犠牲になることでも儀式は成功するとアドバイスするかもしれないが、そこまで尻尾を出すのは極めてまれなことだ。
 有彦にとって最重要事項は自己保身とアブホースの休眠状態の維持だ。彼にとって自分以外の不具なる者が犠牲になるのは哀れながらも村を守るために当然のことであり、人格者的な立ち位置と何ら矛盾するものではない。また神格の退散を提示されたところで、彼はその可能性を無いものとして扱う。いくら説得を試みようと考えを変えることはないため、プレイヤーは徒労と感じるかもしれない。
 有彦は日没前に神社および「あわいの岩屋」付近から離れてしまっており、探索者が彼の所業を知ってから後に遭遇する機会はほぼないだろう。「鎮めの儀」が予定より早まったことを察知して、意図せずアブホースの呼びかけを受けることを警戒しているためだ。このシナリオの中で有彦はあくまで脇役であり、大きくフォーカスされることはない。

10.宇多川家の調査

宇多川家間取り

 帰宅した真琴は、地震で被害を受けた部屋の片付けを始め、探索者には寛いでいるように言う。
 これ以降探索者は自由に屋内を探索できる。宇多川家の1階にはリビング・ダイニングと台所があり、2階には真琴の部屋、ことりの部屋、鍵のかかった部屋(書斎)が配置されている。片付けを手伝いたい、ことりの遺品を見たい、といった理由を付ければ良いだろう。プレイヤーが探索に積極的でないならば、キーパーからそのように促しても構わない。
 この間の探索で判定に失敗しても、時間のロスはあるものの再度挑戦することができる。キーパーはこのことをプレイヤーに伝えた上で、再挑戦を行った回数を記録しておくこと。クライマックスでの選択によっては、その回数が判定に影響するためだ。

◆リビング・ダイニング

 探索者が最初に訪ねる部屋で、4人掛けのダイニング・テーブルなどの家具がある他、祖霊舎が設えられている。

◆台所

 清潔で整理されたキッチンだ。壁に神棚が取り付けられており、粟嶋神社の神札が納められている。〈目星〉に成功した探索者は、神棚から漢方薬の薬包紙を発見する。〈薬学〉または〈生物学〉に成功すると、薬の原料が菌類の胞子に酷似したものであると分かる。これはアブホースの胞子を材料として有彦が作成した秘薬である。服用者はアブホースからのテレパシーを受けやすくなるほか、長期間の摂取により、体を徐々に落とし子に似た組成に作り替えられていく。

◆ことりの部屋

 ことりがかつて使っていた子供部屋は、物が倒れてはいるものの、普段から真琴が手入れをしている様子が見て取れる。使っていた学習道具は段ボール箱の中に、本は本棚に収納されている。

・段ボール箱
 段ボール箱へ〈目星〉に成功すると、段ボール箱の中から「うたがわ ことり」と幼気な筆跡で書かれた絵日記帳を発見する。日記帳を探したいという指定があった場合は自動的に発見できてもかまわない。ことりの日記には、生前の彼女の周囲の出来事が記されている。友達と遊んだこと、探検に行った思い出、母親との日々といった微笑ましい内容の中に、不可思議な記述が散見される。


〇がつ×にち
きょうおじちゃんがおうたをおしえてくれました。
じんじゃのおうたはむずかしいけど、おぼえられるようになりたいです。
パパもむずかしかったのかなあとおもいました。

〇がつ×にち
きょうはどうくつにたんけんにいきました。
どうくつでかみさまにあいました。
えほんにでてくるかみさまだってわかりました。
おうたをうたったら、かみさまがことりのなかにはいってきました。

〇がつ×にち
おじちゃんにきのうのことをおはなししました。
ことりがいいこにしてたから、かみさまがとりかえっこしてくれたんだって。
ことりにちからをくれるんだって。
おじちゃんはママにないしょといったよ。

〇がつ×にち
とおくでよんでるのだれだろう?


 絵日記には、「かみさま」という添え書きと灰色のクレヨンで渦が描かれている。絵を見た探索者は、無性に恐ろしく禍々しいものに感じられ、0/1D2正気度ポイントを失う。

・本棚
 本棚へ〈目星〉か〈図書館〉に成功すると、『あぶくの神様 ~谷土のむかし話②~』と書かれた小冊子を発見する。こちらも、指定があればロールなしで見つかって構わない。本の内容は以下の通りだ。


むかしむかしずっとむかし、この世には神様がいました。
その神様はいろいろな子供たちのおかあさんでした。
ある時神様は、あぶくでできた子供をうみました。けれども、その子はできそこないでした。
できそこないの子は、神様からにげだしました。
だってそうでないと、ふできな子は神様にひとのみにされてしまうでしょう。
あぶくの子は、こわくてしかたがありませんでした。

あぶくの子は、神様からはなれてながいながい旅をしました。
でもほんとうは、とてもさびしかったのです。
どこかとおくから、あぶくの子にもどっておいでと呼ぶ声がきこえます。
あぶくの子は、おかあさんのところにかえりたくなりました。
こわくって、あいたくって、かなしくてたくさん泣きました。
おかあさんのいる国の入り口で、何日も何日も泣きました。

そうしていると、ひとりのおぼうさんがやってきました。
おぼうさんは、あぶくの子をきのどくに思いました。
それから、ひとりぼっちの子のために、おやしろをつくってあげました。
あぶくの子は、すこしだけさびしくなくなりました。
おやしろは、おかあさんのいる国のすぐ近くにあったからです。

いまでもあぶくの子は、神様の近くにいます。
時には、おかあさんの声がきこえて恋しくなるような夜もあります。
でも、あぶくの子はもうひとりではないのです。
たくさんの人が、あぶくの子をなぐさめてくれるようになりました。
あぶくの子のおやしろは、あわしま神社というなまえになって、
ずっとずっと、おぼうさんの子供や孫が、あぶくの神様を見守っているそうです。


◆真琴の部屋

 ベッドが1つ、木製の事務机が1つ、小さな本棚が1つあるだけの部屋だ。整頓されている、というより若干殺風景さすら覚える。

・事務机
 机の上には、レポートパッドが一冊置かれている。レポートパッドには罫線が引かれているばかりで、何も書かれていない。よく観察すると最後に破り取った一枚の筆跡が下の紙に残っており、引っ掻いたような跡が白紙に刻まれているのが分かる。鉛筆でこするなどすれば、フロッタージュの要領で文字が浮かび上がる。〈アイデア〉でそのことに気が付いてもよい。筆跡はどこか書き慣れない様子で、難しい読みの漢字にはひとつひとつルビが振られている。


《泡生大神御霊鎮歌(あぶくおほすおおかみ・ごりょうしずめうた)》
あちめ ををを ををを ををを
遠永(とおなが)に 根の国底の国より立つ 禍事おさめ給えと  畏み畏みも白(もう)す
あちめ ををを ををを ををを
魂筥(たまはこ)に あぶくおほす神 魂ち取らせよ 御魂上(みたまが)り 魂上(たまがり)ましし神は 今ぞ来ませる
あちめ ををを ををを ををを
御魂みに 去(い)ましし神は 今ぞ来ませる 魂筥持ちて 去りくし御魂 魂返しすなや
ひとふたみいよういいむうななやここのたり ふるべゆらゆらとふるべや


 また、机の引き出しの奥底には鍵が入っている。これは書斎の鍵であり、真琴も普段あまり立ち入らないことから引き出しの奥底に隠れている。〈目星〉に成功するか鍵を指定して探すことで発見できる。

・本棚
 本棚にはあまり多くの本は並んでいない。いくつかの背表紙に目を通すと、料理や医療、特に臓器移植後の患者のための食事やケアに関する本のレパートリーが多いことを確認できる。真琴が探索者と知り合った後買ったものだ。
 調べると、一通の封筒が地震で倒れた本の間から半分飛び出していることに気が付く。差出人は探索者の移植手術を行った執刀医で、数ヶ月前に真琴宛てに出された手紙だと分かる。探索者は執刀医について今は引退して地方でのんびり暮らしていると聞いている。
 封切られた封筒から便箋を抜き取り目を通せば、時候の挨拶から始まる丁寧な筆致は後に続けば続くほど震え、荒れていく様子が見て取れる。


《手紙の記述》
私の胸中には今、ひとつの恐怖が巣食っています。
移植を行った患者に対しては、必ず術後定期的に心筋生検を行います。
あの子の場合も、通例通りでした。
病理医から回されてきた、溶液で固定された標本は、確かに心筋細胞のそれでした。
主だった疾患も見られない、健康な人間の心臓でした。
拒絶反応も極めて軽微であり、私は術後大変安堵したものです。
しかし、検査で採取した細胞を後日研究のため培養した際、私は見てしまったのです。
顕微鏡の向こうで、それは蠢いていました。
灰色の奇妙な細胞群が私の目の前で恐るべき速度で成長していきました。
明らかに人間の、いえ、地球上のどの生物の細胞とも異なる粘体状の体組織が、確かに生きていたのです。
私は叫び出しそうになりました。
無限に分裂を続け最早異形の生物へと変わりつつあるそれを、確かに焼却しきったことを確認するまで、最早死の恐怖すら覚えました。
私は一体何を摘出したのでしょうか。
あの子に移植したものは、何だったのでしょうか。
今も心臓は、あの子の肋骨の内で鼓動を刻んでいます。
私はそのことが、たまらなく恐ろしいのです。


 明言を避けるかのように、「あの子」とだけ記されているものの、探索者には分かってしまう。彼が外ならぬ探索者の心臓に対して怯えと恐怖を抱いていることに。不安が内側で膨れ上がり、皮膚の裏側が粟立つような感覚を覚える。聞き慣れた心臓の鼓動が、まるで別の生き物が体の中で跳ね回っているように感じられる。探索者は自分の内にいるものは何なのだろうかという疑念と恐怖を抱かざるを得ないだろう。1/1D6正気度ポイントを失う。

◆書斎

 この部屋には外から鍵がかかっているが、〈鍵開け〉に成功するか真琴の部屋で鍵を見つけることで中に入ることができる。カーテンが閉まり日中でも薄暗く、段ボールと本棚ばかりが置かれている。かつては貴幸が使っていた書斎であるため、物置にしては広い印象を受ける部屋だ。

・本棚
 壁一面に並んだ本棚へ〈目星〉か〈図書館〉に成功すると『谷土の七不思議 ~谷土のむかし話①~』という小冊子を発見する。また、ことりの部屋で『あぶくの神様 ~谷土のむかし話②~』を発見していた場合、①がどこかにあると推測しやすいだろう。指定があった場合、自動的に発見できてかまわない。ページを捲ると、谷土村の七不思議にまつわるむかし話が、イラスト付きで載っている。内容をまとめると以下の通りだ。


《谷土の七不思議》
一、怪火……水面や草叢から急に火が上がる。川蛍だとか狐火とも言う。
二、浄土の井戸……あの世につながっていると言われ、昔の宮司が神意を聞くのに使ったという。
        また、地震の前になると水が枯れたという言い伝えがある。
三、化け狐……ある男が足の萎えた山鳥を見つけた。儲けものだと拾おうとすると
      女の生首に変わった。狐に化かされたのだと皆笑いあった。
四、片目魚……神域の池では片目の魚が釣れる。捧げものの印なのだという。
五、願人さんの煎じ薬……願人さんの薬はご利益があって婦人病や不妊に効く。
六、福童子……谷土で生まれた体の不自由な子は神の子とされた。
      長じると竜宮に帰るが、養い親は福に恵まれる。
七、神隠し……「あわいの岩屋」に行くと神隠しに遭う。粟嶋さんの神奈備(神域)だからだという。


 巻末には地図が附録として載っており、七不思議のうちはっきりと場所が分かる言い伝えについては印が打たれている。地図の粟嶋神社のところに印がひとつ、その崖下にある洞窟にも印が一つ打たれている。
 この資料は「あわいの岩屋」の場所を示すものであると同時に、過去の谷土村でアブホースの影響がどう現れていたか、宇多川家の祖先がどのように立ち回り、生贄を捧げ続けてきたかを推測できる手がかりでもある。

・段ボール箱
 段ボール箱に収められているのは貴幸の遺品らしきものの数々だ。〈目星〉に成功するとその中から茶色い革表紙の手帳を探り当てることができる。手帳の類を探すと指定する、あるいは再挑戦1回分相当の時間をかけることで自動的に発見できてもよい。
 手帳は年季を感じさせるもので、ページを捲ると各地の旅行記のような内容から始まり、その土地の風俗史を研究していく様が描写されている。次第に探索者には理解できない記述が増えていき、最後には研究日記に近い内容へと移り変わって行く。探索者に関係のある記述は以下の通りだ。


◆『粟嶋神社秘抄』に関する考察
宇多川の家は神を慰撫する家系だ。
父母、祖父母、はるか以前から、かの神の荒魂を鎮めんとしてきた。
祭神は粟嶋明神と伊邪那美命とされるが、それは表向きの話だ。
その神の真の名は泡生大神(あぶくおほすおおかみ)といい、まさしく人智を超えた恐ろしい存在だ。
真に目覚めた時、神によって村は余さず飲み込まれてしまう、と寝物語に何度も聞かされたものだ。
「鎮めの儀」には宇多川の人間がその身を神に捧げる必要がある。
老いた者や不具者が一族の中から選ばれ、十数年、或いは数十年に一度その責を果たす。
適格な者がいない場合には願人の秘薬を使う。体を徐々に宇多川の者と同じくしていくために。
選ばれた者もまた、儀式の時期が来ると秘薬を常用する。
それによって神との交信が行いやすくなるのだという。
神からの呼びかけを受けると、選ばれた者は「鎮めの儀」を行い、あわいの岩屋の湖底に身を投げる。
犠牲によってまた数十年、かの神の目覚めは防がれ、安寧が村に齎される。

僕自身、何度もこの村を離れようと考えた。
しかし時間が経つと、胸を締め付けられる郷愁に引きずられ帰ってきてしまう。
兄も父も、先祖たちも同じだったのだろう。
母なるものへの思慕は僕たちの血肉に深く刻まれ、うたかたの如くに時に立ち上ってくるのだ。

以前はこの風習に疑問を持つことなどなかった。
学生時代の事故で足に不自由を負った僕がこの役を負うのは当然だと思っていた。
しかし真琴と出会い、ことりが生まれて、違う思いが湧き上がった。
ことりや子孫の代に因習が引き継がれないよう食い止めなくては。それが真に果たすべき僕の役目だ。


 また、手帳の最後には呪文が記されている。

◆《泡生大神送神詞(あぶくおほすおおかみ・かみおくりのことば)》
この呪文は神格の退散の呪文と同等のものとして扱う。
神域で《泡生大神御霊鎮歌》を唱えた後、以下の文句を唱えることで呪文は成立する。

あはり いあ いあ そぶあすと まうさぬん
あぶくおほす 元津御座(もとつみくら)に 帰りましませ

呪文には1ラウンドを必要とする。呪文を唱え終わった時点(1ラウンド経過後の詠唱者の手番)で使用するMPを宣言する。
《泡生大神御霊鎮歌》を知っている者はMPを提供することができる。
退散率の判定に成功すると退散は成功する。(成功率は最大99%)

 〈INT*3〉のロールに成功すると呪文を修得することができる。探索者が修得を希望した場合、キーパーは〈INT*3〉のロールを2回振らせること。ここでは分からないことだが、探索者と親神から逃げ延びたいアブホースの落とし子の思惑が一致したために、落とし子の修得ロールも疑似的に行っている。2回のうちどちらか1回成功すれば修得でき、どちらが成功しても修得するのは探索者となる。また、失敗した場合の再挑戦のロールは探索時と同様に処理すること。

11.消えた真琴

 このイベントは探索者が宇多川家2階の調査を終えたか、ある程度情報が集まり真琴に事情を問い質そうと1階へ下りたタイミングで発生させると良い。探索を行ううち、いつしか日が落ちた頃合いだ。
 突然1階から笛吹きケトルのけたたましい音が聞こえてくる。台所ではやかんが火にかけられたまま激しく沸騰している。家の中に真琴の姿はなく、夕飯の支度は途中のままだ。地震の直後ガスの元栓を止めていた真琴がこんな不用心な真似をするだろうかと探索者は訝しむだろう。
 また1階を調べた場合、玄関の引き戸は鍵が閉まり靴も残っているが、台所の勝手口の鍵が開いておりサンダルが無くなっていることが分かる。アブホースの呼び声──テレパシーを受け取り半ば無意識に外へ彷徨い出たために、真琴は家から姿を消してしまったのだ。
 真琴の行方を追うには〈追跡〉に成功しなければならない。ただしプレイヤーが「あわいの岩屋」に目星をつけそちらへ向かうと宣言した際は、判定なしでたどり着ける。

 「あわいの岩屋」は粟嶋神社のある丘の麓に位置している。洞窟は人が一人漸く通れるほどの広さで、内部は暗く、入り口には注連縄が張られている。
 洞窟に入る際、アブホースの胞子POT10と探索者のCONとを抵抗表で競わせる。成功すると軽いめまいと頭痛を覚える程度で済むが、失敗した場合、どこからか「かえして……かえして……」と囁きかけるような幻聴を聞き0/1D2正気度ポイントを失う。

 洞窟は緩やかな下り坂となっていて、徐々に地上の幽かな光すらも遠ざかり、まるで根の国に向かうような心地を覚える。ライトで洞窟の壁を照らせば、ぞっとするほど無数の菌類が天井や壁を覆い、薄ぼんやりとした光が不気味に明滅を繰り返している。体が壁を擦る度胞子が舞い、探索者の視界を曇らせる。〈生物学〉に成功するとこれらが未知の菌種だと分かる。
 洞窟の奥へと進んだところで胞子POT26と探索者のCONとを抵抗表で競わせる。失敗した探索者の心臓は飛び出さんばかりに激しく鳴り、全身が震え、呼吸もままならなく感じられる。
 探索者の目の前には、テレパシーを受けた落とし子がもたらしたことりの姿の幻が現れる。
 「かえしにきてくれたの?」「だって、ことりがかみさまからもらったんだよ」「いっしょにかえろうよ。おかあさんのところに」といった風に訴えかけながら幻影は探索者に向けて手を伸ばすが、実際に触れることはない。心身を苛まれた探索者は1/1D6正気度ポイントを失う。

 地底深くになるにつれて洞窟内の湿度は増し、歩くたびに足元で水の跳ねる音が聞こえる。〈目星〉に成功すると水溜まりの水面から小さな泡が出ていることに気がつく。「あわいの岩屋」の奥底では天然ガスが湧き上がっているのだ。このことは〈化学〉または〈地質学〉に成功すれば確信できてよい。

12.泡生大神

 洞窟の突き当たりには地底湖が広がっている。見上げれば、崩れかけた天井の隙間からわずかに夜空が覗いている。
 湖の縁にサンダル履きにエプロンを付けたままの真琴が立ち尽くしている。片手に鉱夫用のランタンを提げ、茫洋とした表情で“鎮め歌”を口ずさむ様子は異様だ。
 探索者が彼女に声をかけると夢心地で口元を綻ばせながら「ほら見てことりよ。ことり、こんな所にいたのね」と湖面を指し示す。キーパーは以下の描写文を読み上げること。

ただ、灰色の海がそこに広がっていた。
澄んだ湖はなく、生命の素を攪拌したが如く、粘度を保った液体が弾ける音が反響している。
深淵の縁に漣が起これば、波に浚われ弄ばれた幼子に似た姿の何かが、よたよたと打ち上げられてくる。
生まれたばかりのそれは、引き摺る足すら持たないままに、腸を這わせ、母なる海から逃れようとか細い悲鳴を上げていた。
泥の中で頭が転がり、跳ねた。胴だけの人体が、鰭をもった手指が、ぬかるみで藻掻いていた。
水面が濁った飛沫を上げ、軟体動物の巨大な触腕のごとき塊が立ち上がる。
泣き叫ぶ子をあやすように慈しむように、不具なるものどもを抱擁する。
泡の割れる音が響く。球形の目玉がぐるりと裏返り、灰深泥が弾けて消えた。
人型の腕が巨大な触手に抱かれ、引き摺られ、煮崩れた果実のように溶け落ちた。
ぼこ、ぼこ、ぼこ、ぼこ。
どくん、どくん、どくん、どくん。
あなたは確信するだろう。
胸郭の内で今も早鐘の如く生命の音を刻み続けるものの正体を。
弾け消える水泡と同じリズムを刻む心臓は、今なお這いずり不浄なる父母から逃れようとする同胞たちと同じところから来たのだと。
泡沫のように浮かび上がる、この感傷。
《 しにたくない 》 心が急くように訴えた。
《 かえりたい 》 悲愴な鼓動が躰を叩いた。
あなたの中で相反する二つの野性的で根源的な情念が、精神を引き裂かんばかりに湧き上がる。

 泡生大神を目撃した探索者は1D3/1D20正気度ポイントを失う。

アブホース、父にして母なる泡生大神
STR40  CON100  SIZ80  INT13  POW50
DEX1  移動0  耐久力90
武器:
付属器官 60% 〈つかむ〉と〈吸収〉
相手をつかみ、湖に引きずり込む。引きずり込まれた対象は毎ラウンド3D6ダメージを受ける。
装甲:
物理的な力を使う武器では、アブホースを永久に傷つけることはできない。
1ラウンドに20ポイントの割合で物理的なダメージを回復させる力がある。
火および魔術は普通にダメージを与える。
耐久力が0まで落ちると、地下の深いところへ引っ込んでしまう。

引用:『クトゥルフ神話TRPG』サンディ・ピーターセンほか作、中山てい子/坂本雅之訳、KADOKAWA/エンターブレイン、2004年、初版、p.206

 その情景を前に、真琴は見えているのかいないのか、まるで酔ったように、口元に僅かな笑みを湛えている。そして、何かを待つかのように、あぶくの神を讃える歌を唱えている。まるで子守唄を歌うが如く。
 探索者が呼びかければ、はじめ真琴はことりがここにいるから自分は残ると主張する。その一方で探索者に対しては、危険な場所であるため帰るようにと促す。言葉を交わすうち、真琴はことりの心臓がここにあると教えられたこと、そして内心に抱えた懺悔を口にする。

《真琴台詞例》

「ここにはね、ここには、ことりがいるの。それだけで十分よ」
「でも〇〇くん/ちゃんは、こんな所に来ちゃいけないわ。早く戻って……お家に帰ってちょうだい」
「駄目よ。私がことりにしてあげられるのは、これしかないの。私がもっとちゃんとしていたら、きっとあんなことにはならなかったのに」
「ことりの心臓はここに眠っているって、教えてもらったの」
「だから、ね。駄目な母親だった私には、これしかないの……。ことりは……ことりは……!」
「私は……ことりのために、何も残してあげられなかった……!」

 恐るべき大きさの触手が湖の底から立ち上がり、不浄の神はその食指を湖岸へと伸ばし真琴に狙いを定める。触手はランプを弾き飛ばす。ランプが足元に転がるが、真琴はそれを拾うこともせず、思い悩んだ表情を浮かべている。
 母なる神はその懊悩すら掬い上げるように、再度触手を差し向ける。これ以降、戦闘ラウンドとして処理を行う。

 戦闘ラウンドが始まる前に、探索者は真琴に対して〈説得〉を行うことができる。真琴は狂気に陥っているわけではないが、幻覚を見、深く傷ついているがゆえに留まることを望む。この際真琴に対する情報の提示や主張によって、補正を与えてもよい(貴幸の手帳のことを伝えている、探索者の感情として真琴に生きてほしいと告げている、等)。〈説得〉に成功した場合、真琴は探索者に協力する。涙ながらにことりを言い訳にしていたと懺悔し、これ以上心配をかけるわけにはいかない、と思いを新たにする。
 結局のところ、どちらを選んでも真琴に後悔がないわけではない。探索者と共に生きる道であれ、ことりの心臓の溶けた母なる海に命を投じる道であれ、彼女は人生の最期まで、もう片方の選択に思いを馳せないことはないだろう。キーパーは探索者の選択を見守るべきだ。

 処理と描写が終了した段階で、戦闘ラウンドを開始する。戦闘ラウンドにおいて、アブホースは探索者を対象に攻撃を行う。
 以降に、探索者が取り得る可能性の高い解決手段を例示する。キーパーはこれらを参考に、探索者の提案によって処理を行うとよいだろう。

◆A.泡生大神を退散させる

 真琴の説得に成功している場合、彼女も退散に協力する。ただしこれまでの儀式により、真琴が提供できるMPは[10-宇多川家の探索を開始してから判定の再挑戦をした回数]だ。
 さらに退散に際しては、探索者の心臓が力を貸す。10ポイントのMPを追加のコストとして使用することができる(使用MP合計29ポイントで、退散の成功確率は99%となる)。
 退散を行う探索者の前には宇多川ことりの姿が立ち現われ、これまでとは異なり激励するような言葉を投げかける。アブホースの落とし子がMPを提供することと、ことりの描写は2ラウンド目の探索者の手番、退散の判定を行う直前まで伏せておいた方がよりドラマチックな展開を演出できるだろう。

《描写例》

神送りの歌は終盤に至り、込めた力を神を祓うために使うべき時が来る。
歌うあなたに、幼い声が重なる。
「あぶくおほす もとつみくらに かえりましませ」
「ありがとう、〇〇くん/ちゃん」
「ママのこと、よろしくね」
それはあるいは幻聴だったのかもしれない。
それでも確かにあなたの内で、心臓は応えるように鼓動を打つ。不思議なことに、鼓動がひとつ歌に合わせて打つたびに、あなたの気力がいや増してくるのを感じる。
あなたは、昔話を思い出すだろう。母親から逃れたあぶくの子はあなたの内にあり、今力を貸そうとしているのだと。

 退散に成功すると、アブホースはことりの幻影とともに湖から姿を消す。長きに渡り谷土村に纏わりついていた邪神の累は絶たれたのだ。

《描写例》

声が、鼓動が、重なった。言葉を紡ぎ、祈りを形にする。
黄昏色の泡が弾ける。神の御姿はその威容を薄くし、岩屋に薄く光が差し込んでいく。
母なる神の輪郭がおぼろに崩れていく。
あなたは見るだろう。光に霞む少女の姿を。
静かに微笑みかけながら、陽炎は輝く湖にゆっくりと沈んでいく。
あるいは常世へと旅立ったのか、輝きを残して少女はその姿を完全に消していた。
そして貪欲なる母神の姿もまた。
澱んだ水はやがて清さを取り戻し、静かな湖底にただ泡沫だけが漂っていた。

◆B.地底湖に火を放つ

 アブホースに対して火によるダメージは有効だ。最もシンプルな方法は、地底湖へ真琴の持っていたランタンを投げ込むことだ。成功すると湖から湧き上がる天然ガスに引火し、毎ラウンド20D6ポイントのダメージを与えることができる。この際「大きな対象への射撃投擲」のルールを適用できる。ただし洞窟内での着火は爆発、延焼の危険がある。〈幸運〉に失敗すると探索者は2D6ダメージを受ける。

《描写例》

灯は放物線を描くと、吸い込まれるように、湖へと落下していく。
不知火が水面に浮かぶ。
瞬く間に、湖面へ炎が奔り燃え上がる。
眩い閃光と見まがうばかりの熱量が、あなたの目の前で爆発していた。
眼前で、神は、母なるものは苦痛を訴える。
奇妙な悲鳴にも似た音色で次々に泡が弾け飛び、その度に苦悶で体を捩じらせる。
どれだけ身悶えしようとも、あかあかとした火はあぶくの体に燃え移り、激しく体を焼け焦がしてゆく。
悍ましい叫びを上げながら、不浄の神は巨大な腕をあなたに伸ばし引き留めんとする。
その試みも終には水泡に帰すだろう。
神と崇められていたものは巨大な躰を湖に横たえ、ゆっくりと沈んでいく。
巨体が湖に沈むのと同時、あなたは小さな不知火を見たように思った。
それは人型の小さな子供ほどの大きさをしていて。
炎に包まれながらも、同じように沈みゆきながらも。
あなたに、笑みを見せたような気がした。

 耐久力が0になると 鳴動とともに洞窟が崩れ始める。急いで脱出しなければ探索者も崩落に巻き込まれるだろう。真琴は説得に成功していなかった場合、この場に残ると主張する。彼女の意志を尊重するか力ずくで連れ出すかは探索者に任せられる。探索者が意識を失っていた場合は、真琴が無事ならば探索者を洞窟の外へ運び出す。ただし真琴への説得に成功していなかったならば、その後彼女は探索者を残し、踵を返して岩屋へと戻っていく。
 天然ガスが湧き出しているため消火作業は難航を極め、数日あるいは数ヶ月に渡って火は燃え続ける。消し止められた後、怒り狂ったアブホースが目覚め村を喰らい尽くすかもしれない。いずれにせよそれは探索者が村を去った後の物語だ。

◆C.探索者が生贄になる

 真琴の代わりに、生贄の資格のある探索者が身を捧げることでも儀式は成立する。湖へと体を投げ出せば、アブホースの巨大な触腕が探索者の体を強く絡め取る。焼け付くような激痛と全身の骨を砕かれるような抱擁に耐えかね意識を手放す寸前、探索者は落とし子との別離を迎える。

《描写例》

泡の弾ける音を聞いた。他でもない、あなたの内から。
ついさっきまで鼓動を刻んでいたはずの心臓が、氷水を流し込まれたかのように冷え切っていく。
生の実感が失われていくのがあなたには感じ取れた。
泡沫の生命はかくもあっけなく消えてゆく。
胸郭が膨れ上がり、柘榴の実が割れるように赤い飛沫と灰白の泡が混じり合いつつ迸る。
一つの命の終焉と引き換えに悍ましくも哀れな生き物が孵化の刻を迎えるのだ。
滲むあなたの意識の端で最期に映った光景は、薄墨色の醜い雛のような何かが、羽搏く姿だった。

 アブホースの落とし子が無事に母なる腕から逃げおおせるか、あるいはすぐ目の前で絶望に目を見開いて立ち尽くす女を糧として成長することを選ぶか、いずれにせよ探索者にはあずかり知らぬ話だ。

◆D.真琴を生贄に捧げる

 真琴の決断を尊重してそのまま見送るという考え方も、探索者の選択としてはあり得る。アブホースの偽足は彼女を掴むと湖底へと引きずり込む。最期の真琴の表情はどこか安らかにも見える。彼女の耐久力が0になると儀式は成功する。谷土村は数十年の平穏を得たのだ。
また、真琴がアブホースの攻撃により耐久力が0になった場合も、結果的に「鎮めの儀」は成功し、村の平和は守られるだろう。

《描写例》

別離の時が来たる。
湖縁から真琴が足を一歩踏み出すのを待って、大いなる触腕がその体を掬い取る。
泡生大神の玉体を湛えた沼へ引き込まれた彼女の躰は、焼け爛れ崩れてゆく。
苦悶を訴えながらもその表情がどこか安堵の色を呈しているように見えたのは、あなたの願望だろうか。
何かを抱き締めるのにも似た格好で沈みゆく母の姿がついに見えなくなって幾らか経った頃、
湖の灰白が淡くなりゆき、澱んだ水はやがて清さを取り戻していく。
母なるものの胎の底で、母と子は再会できたのか。
それとも、真琴の哀れな幻想に過ぎなかったのか。
遺されたあなたには、ただ泡沫を見るばかり。

◆E.あわいの岩屋から逃走する

 恐るべき神に背を向け逃げ出すという選択肢は、おののいた探索者の行動として有り得ないわけではない。しかし儀式を中断したことにより不完全に目覚めさせられたアブホースに、贄を逃がすつもりはない。脱出には〈回避〉に2回成功する必要がある。
 岩屋から玉体は岩屋の外へ溢れ出し、手当たり次第に村の命あるものを捕らえ呑み込んでいく。命からがら逃れた探索者たちを除いて。

《描写例》

後ろで命の弾ける音がした。
黄泉津大神の暴虐が広がっている。暗闇の中大いなる腕に絡め取られ、何十もの人々が母胎へと貪られてゆく。
誰しも命はあまりに儚く、故に大切なものですら守ることが容易くないのだとあなたは知っている。
だからこそ、振り返ることはできなかった。ひたすらに走り続ける。
心臓が呼応して激しく高鳴る。
どくん、どくん。
生きろ、逃げろと命じている。
他の誰を犠牲にしても、あの忌まわしき死出の抱擁を受けるわけにはいかない。
すべては、泡沫の生を生き抜くために。

 探索者が逃げ延びた後日、谷土村のほぼ全ての住人が失踪するという事件が世間を賑わせることとなる。生き延びたいという衝動を正しく受け継いだ探索者を除いて、彼らの行方を知る者はいない。

◆イベント:火産霊

 探索者がいずれの手段を選んだ場合でも、アブホースの攻撃からの回避に失敗した場合に発生するイベントだ。
 とっさに真琴は探索者を突き飛ばし、身代わりに触手に絡め取られ、湖へ引き摺り込まれる。長きに渡り不浄の神が微睡んでいた水は澱み、強い酸性を帯びている。引き込まれ吸収を受けた者は、毎ラウンドの終わりに3D6のダメージを受ける。
 地震の日、ことりを引き留め守ることができなかったことが最大の後悔である真琴にとっては、この行動はある種の救いですらある。母親失格だと自身を苛んでいた真琴は、酸の海に焼かれることで漸く再び母親になれたのかもしれない。

《描写例》

———不浄に泡立った触手が一直線へあなたへと伸びる。
あなたはそれへの反応が一瞬遅れた。
自分を突き飛ばす衝撃。地面に叩きつけられる。
強い痛み。しかし、あなたの体には、何も絡みついてはいない。
湖から伸びた巨大な触手は、真琴へ強く巻き付いている。
じっとりと濡れた偽足が細い体に絡み付き、彼女を捕らえる。
「よかっ……今度は、守れた……」
その言葉を最後に、ぐん、と力強い牽引がかかり、人形のように不自然に真琴は体を曲げた。
それきりだった。
宇田川真琴は、灰色の偽足とともに湖岸から姿を消していた。

 探索者が退散に成功するなどして救出できなければ真琴は死亡する。また、救出できても真琴は全身に酷い火傷を負い、顔面は爛れ弱視の障害を背負うこととなる。それでも彼女はその選択に後悔はないだろう。
 このイベントを経由した場合、クリア報酬の真琴を「救う」の条件を満たしたものとみなしてよい。

13.結末

 辛くもアブホースの魔手から逃れた探索者は日常へと戻る。自らの心臓の来歴を知り恐怖に対峙した経験は、探索者に多かれ少なかれ影響を与えるだろう。誰であれいつ弾けるか分からない命をどう生きるかは探索者次第だ。
 真琴が生還していた場合は、これからも探索者を見守るだろう。彼女は探索者へ「私を掬い上げてくれてありがとう」と感謝の言葉を述べる。
 いずれにせよ、探索者の裡では、これからも泡沫の心臓が変わらず時を刻み続ける。
 泡生大神に遭遇して生還を果たした探索者は2D6正気度ポイントを獲得する。
 さらに、真琴を「救う」ことのできた探索者は追加の1D4正気度ポイントを得る。

 また、探索者は以下のアーティファクトを得る。

泡沫の心臓(アブホースの落とし子)
SIZ:1 INT:探索者と同じ POW:11 耐久力:10
装甲:なし 1ラウンドに1D20耐久力を回復する。
この落とし子は、探索者と一時的な共生関係にある。
心臓を対象にした直接的な攻撃を受けた場合、落とし子の耐久力が0にならない限り探索者が死を迎えることはない。
不浄の父母たるアブホースから探索者が逃れようとする限りにおいて、落とし子は力を貸すだろう。
アブホースから逃れるための手段においてのみMP10のアーティファクトの代用となる。
探索者がアブホースの元へ帰ろうとするならば、落とし子は内から体を食い破ろうとする。
そうでない限り、少なくとも探索者の脳が死を迎えるまでの間は、平穏は維持される。 

 このアーティファクトはシナリオの根幹を成すものである。継続して使用する探索者が他のセッションへとアーティファクトを持ち込むことのないよう、キーパーは厳重に注意を促すこと。また、ことりが死を迎えたのと同様、心臓以外へのダメージや病気を防ぐ効果もない。キーパーは対応に苦慮すると思われる場合、必ずしもアーティファクトとして獲得させる必要はない。

14.附録:時系列

移植の4年前:貴幸が事故に見せかけて有彦に殺害される。
移植の1年前:ことりが「あわいの岩屋」へ遊びに行き、心臓を入れ替えられる。
移植の数日前:地震が発生。家を飛び出したことりは瓦礫の下敷きになり搬送される。
移植当日  :ことりが脳死判定を受ける。心臓はその日のうちに探索者へ移植される。
任意の日時 :探索者が真琴と知り合い、交友を深める。
数ヶ月前  :執刀医からの手紙が真琴の元に届く。有彦に相談した真琴は真実を知らされる。
シナリオ開始:探索者が真琴からの電話を受ける。 

参考文献
キース・ハーバーほか著、坂本雅之訳『クトゥルフ神話TRPG ダニッチの怪』、株式会社KADOKAWA、2012年
有安美加著、『アワシマ信仰 ─女人救済と海の修験道─』、岩田書院、2015年

 

 

公開:2020年5月5日
TRPG二次創作活動ガイドライン対応:2023年4月16日