紙一重だったはなし - 2/2

 

 

 

 

 


3.シナリオの背景

 探索者の友人である和泉は、深淵の次元に棲むアドゥムブラリ(『マレウス・モンストロルム』p.15)の獲物として、捜し求めるもの(シーカー、『マレウス・モンストロルム』p.50)に狙われている。催眠術によって和泉は犬の姿をしたシーカーをブリーダーから貰ったと思い込まされたまま、ドリーと名付け半年ほど共に過ごすこととなる。
ドリーを飼い始めたことで彼は次第にアドゥムブラリの棲む異世界に影響され、漫画のアイデアや描写の中にかの異次元のイメージが無意識に混じるようになっていく。ついには和泉が描き上げたうちの1ページは、アドゥムブラリのいる深淵の世界に人間の精神を誘いやすくする催眠効果を有するようになる。これは捜し求めるものにとっても好都合であった。図らずもより多くの獲物を深淵の世界へ引き込むチャンスを得たからだ。
 作品は完成し、刊行前に親しい友人へと披露されることとなる。その折についに和泉は異界へと引き込まれてしまった。彼を救うことができるかは、探索者に委ねられている。

4.主要NPC

■和泉 紀人(いずみ のりと)
 探索者たちを招待した漫画家。主に月刊誌に活動の場を置いている。都内のマンションに一人暮らし。15年ほど前にデビューした後、青年誌等に連載を続けてきた。現在でも連載の合間を縫って同人誌を出している。画力と綿密にテーマを研究した上で展開されるリアルな描写に定評がある。
 競馬漫画なら乗馬、といった風にその主題を体験してみなければ気が済まない性質で多趣味。そのため年齢問わず友人がいる。不摂生が祟り肥満体型だが、大学時代は登山部に所属しており本人は「動けて描けるデブ」を自認している。
 連載状態だった歴史ファンタジー漫画を完結させるが、1枚のカラー原稿が原因で精神を異次元に引きずり込まれてしまう。神話的脅威を前には怯えた様子を見せるが、普段は気さくで愛嬌のある友人である。キーパーは彼を憎めない人物として描写するとよい。

和泉紀人(36歳)、深淵に迷い込んだ漫画家
STR 13  CON 14  SIZ 15  INT 12
POW 11  DEX 12  APP 9   EDU 16
正気度 55 耐久力 15
ダメージ・ボーナス:+0
技能:回避 40%、芸術(漫画) 75%、写真術 50%、乗馬 25%、
製作(原稿) 80%、登攀 50%、博物学 30%、目星 50% 

■ドリー
 黒いラブラドールレトリバーの成犬の姿をしているが、その実体はアドゥムブラリの作った触覚(=シーカー、捜し求めるもの)である。
 アドゥムブラリは我々の生きる世界に即した姿形のシーカーを送り込むことを可能としているが、今回は人型でなく犬の姿を取っている。捜し求めるものをそれと看破できるのは鋭い観察眼を備えた達人だけであり、一般人からは、聞き分けが良く躾のされた愛くるしい犬にしか見えない。
 シーカーは極めて優れた催眠術の能力を持っている。ドリーの目的は、アドゥムブラリのいる深淵の世界に人間を送り込み、恐怖におののく犠牲者を駆り立てさせることである。それこそがアドゥムブラリの最も楽しみとすることなのだ。
和泉は半年ほど前に知り合いのブリーダーから貰ったと思い込んでいるが、その記憶もまたシーカーによる催眠の賜物である。
 普段は何の変哲もない犬として振舞っており、和泉が深淵の次元に送られた後も、密かに原稿を金庫に押し込んだほかは探索の妨害は行わない。その本性を露わにするのは、探索者たちが異世界からの脱出を外部から手助けしようとした時のみである。

ドリー、擬態した捜し求めるもの
STR 12  CON 13  SIZ 8  INT 14
POW 19  DEX 18
移動 8  耐久力 11
ダメージ・ボーナス:0
武器
噛みつき 30%、ダメージ 1D6
催眠攻撃 犠牲者のPOWと自分のPOWを抵抗表で打ち負かせた場合、相手の精神をアドゥムブラリの次元へ送る。
呪文:記憶を曇らせる(基本ルールブックp.255)
技能:聞き耳 75% 嗅ぎつける 90%、社会に溶け込む 75%

5.導入

 とある休日、探索者たちが和泉の自宅に招待されるところからシナリオは始まる。長らく筆を止めていた作品の完結編の原稿が完成したので、ぜひ見に来てほしい、というものだ。
 『峠のタントラストラ』という題のその作品は、インドを舞台にした歴史ファンタジー作品である。アナログ原稿時代の漫画で、山岳地帯に住む青年カンダタが謎めいた少女プーランと出会い義賊団を結成する、という筋書きの物語だ。連載終盤に掲載誌の廃刊、出版社の倒産といったゴタゴタに巻き込まれたために完結部の刊行がお蔵入りになった経緯がある。
 和泉は以前からの友人であり、探索者間も面識がある方が望ましい。ただしここ半年ほどは、探索者には和泉と会う機会はなかった。招きに応じ、探索者たちは久々に彼の住むマンションを訪ねることになる。
 当日、玄関先で探索者たちを迎える友人の傍らにはラブラドールレトリバーのドリーの姿がある。探索者たちはいずれも和泉が犬を飼ったという話は初耳であり、初めての対面となるだろう。探索者に擦り寄ろうとするドリーの首輪を掴んで引き留めながら、和泉は親しげに探索者たちに応対し、自宅へと来客を招き入れる。
 和泉は3LDKの分譲マンションの一戸に一人(ドリーと暮らすようになってからは一人と一匹)暮らしをしている。探索者たちは、玄関の正面にあるリビング・ダイニングへと通される。ドリーが先導するようにソファースペースまで歩いていき、おすわりの姿勢を取る。
 茶の載った盆を運んでくると和泉も席に着き、探索者たちとの歓談が始まる。近況を確認するなど、友人同士の和やかな日常を演出するとよい。なおドリーについて尋ねた場合、知り合いのブリーダーから半年ほど前に貰ったと答える。

《和泉台詞例》

「いやー、久しぶりだね。皆元気してたー?」
「僕なんて仕事のしすぎでさぁ、痩せるかと思ったら逆に太っちゃうんだなー、これが」
「散歩はしてるのにねぇ……やっぱり食べすぎかなぁ、あはははは」

 一心地ついたところで探索者が本題の漫画の完結について水を向けると、「原稿は金庫にしっかりしまってあるんだよー」と探索者たちに待っているように言い、和泉は金庫のある寝室へと向かう。ドリーもその後を追いかけていく。

6.和泉の危機

 和泉が席を立ってから数分後、「ひ、ひぃ……!」という怯えた悲鳴が聞こえてくる。さらに〈聞き耳〉に成功した探索者は、寝室の方から何か金属の扉が閉じたような音を聞き取ることができる。耳聡くもドリーが金庫の扉を閉めた音に気が付いたのだ。
 寝室に駆けつけると、和泉は寝室内の金庫の正面の床に四つ這いのような体勢で蹲っている。がたがたと震え、探索者が声をかけても目は虚ろであらぬ所を見ているかのようだ。「た、たすけて……」、「ここ、どこ……?」と時折歯の根の合わない声を漏らすが、その声もまるでここではないどこか遠くから聞こえてくるかのような響きをもって聞こえてくる。
 探索者がどうしたのかと問いかけると、和泉は混乱した様子を見せながらも経緯を話す。金庫を開けて中身を取り出そうとしたところ、急に視界が真っ暗になり、気がついたらこの場所に居たのだという。探索者からすると寝室に倒れているようにしか見えないが、彼の精神は深淵に架かる細い橋の上にある。視界は異次元の光景のみをとらえ、周囲の声は水中にいる時のようにぼんやりとしか聞こえてこない。

 状況の説明を終えたタイミングで、和泉は突如「痛ッ!」と悲鳴を上げ、腕を押さえる。この時〈目星〉に成功した探索者は、彼が庇った腕に奇妙な模様があることに気が付く。それは不可思議なことにぎらぎらと輝いており、さらに粘菌のように蠢いている。気味の悪くなるような斑紋は、腕のあたりの皮膚の上を這い回ったかと思うと、あっという間に消えてしまう。この奇怪で怖気の走る光景を目撃した探索者は1/1D3正気度ポイントを失う。
 和泉は化け物に片腕を刺されたと痛みを訴えるが、腕を調べても外傷を確認することはできない。彼は深淵の次元でアドゥムブラリの繊維状突起によって体液を吸い取られているのだが、現実世界では一時浮かび上がった斑紋を除いて、負傷と判断することは不可能だ。〈医学〉に成功すると、腕部分だけがまるで老人や病人のように筋力が低下し痩せ衰えていることが分かる。
 あらぬ方を指差しながら「影みたいなお化けが僕の方に向かってくるんだ!」と和泉は怯え、助けを求め続ける。探索者もこれがただならぬ事態だと理解するだろう。

7.和泉の窮状

 和泉は寝室でドリーに付き添われながら、依然うずくまったままだ。
 探索者の行動として、どこかで休ませようと和泉の体を動かそうとする者がいるかもしれない。その瞬間、彼は「や、やめて落ちる!動かさないでくれぇ!」と悲鳴を上げる。〈心理学〉や〈精神分析〉に成功した探索者は、その恐怖が彼にとっては真に迫ったものであり、無理に動かそうとすればショック死しかねないと分かる。
 それでもなお彼を移動させようとした場合、和泉は体を崩すような体勢になり、ますます狂乱する。プレイヤーへの警告として、和泉へアドゥムブラリからの攻撃を加えさせても良い。

 また、救急隊を呼ぶなど外部の助けを求めることもあり得るだろう。しかしドリーの催眠術によって、外部からやって来た人間は和泉の状態を認識することが出来ない。探索者がいくら説明しようと、彼らにとってはからかわれているようにしか思えず、困惑しあるいは怒りを覚えながら帰っていくだろう。そしてマンションを出て少し経つ頃には、もうそんな出来事があった事実すら忘れ去ってしまっているのだ。解決には探索者自らが動くほかない。

 このような状態に至った原因として、探索者が初めに目を向けるのは金庫だろう。閉ざされた金庫の暗証番号を聞き出そうとすると、和泉はパニックのためかすっかり番号を忘れてしまっている。それでも彼はなんとか記憶を探り、「ええっと、確かパソコンに暗証番号を……」と手がかりを伝える。
 探索者が情報を求めて和泉の所へ質問にやってくる場面は、以降の探索でも容易に発生しうる。舞台は和泉のマンション内であり、ほとんどの情報は家主なら当然知って然るべきものだからだ。キーパーはプレイヤーが探索に行き詰まっていると判断した際には、和泉の口からヒントを与えてもかまわない。しかしパスワード等の直接的な解答への言及は、探索機会を減らしてしまうことになるため避けるべきだ。
 最も手っ取り早い方法は、和泉が恐怖によって一時的な健忘に陥っている、とすることだ。さらに彼の意識は深淵の世界にあるため、現実世界から〈精神分析〉を行ってもその効果は十分発揮されない。恐怖に打ちひしがれている漫画家を救出するには、探索者自身がアドゥムブラリの次元へと向かう必要がある。

8.マンションを調べる

◆寝室

 和泉の寝室であり、カーペットの上には分厚いマットレスを敷いたキングサイズのベッドが置かれている。また、ドアの正面の壁には埋め込み式の金庫が壁に据え付けられている。
 金庫はカードキーの挿入と数字のテンキーによる二重ロック方式である。中にはドリーによって乱雑に押し込められた和泉の原稿が入っているが、金庫は固く閉ざされている。扉を開け、原稿を入手することが探索の第一目標となる。
 ベッドの下には金庫のカードキーが転がっている。カードキーを手に取った探索者は、少し表面がべたついているように感じる。[〈アイデア〉÷2]か〈生物学〉に成功すると、それが犬の唾液だと推測することができる。

◆仕事部屋

 和泉が仕事部屋として使用している一室である。仕事場としては部屋を別に借りているため、アシスタントの席などはない。デスクトップパソコンと作画用のペンタブレットが載った作業机や業務用の複合プリンタ、作画用具が詰まった棚といったものが確認できる。部屋の片隅には大型犬用のケージが置かれている。
 複合プリンタの上には一枚の紙が載せられている。和泉の漫画のラフであり、和泉がアドゥムブラリの領域へ引き込まれる原因となったページの下絵だ。霞みがかった幽谷に伸びる細い細い一本道と、その先に今まさに朝日が昇ろうとしている山の情景。それらが和泉の線のタッチによって描かれている。絵を見た探索者の意識は遠のき、かつてのアドゥムブラリの犠牲者の記憶を追体験してしまうこととなる。


“あなた”は追い立てられていた。
萎えてもつれそうになる足を必死に動かし、息を切らし、ここまで逃げ延びてきた。
暗澹たる深淵。岸壁に手を掛け、上へ、上へと登って行く。
頂から差し込む光を目指し、這い上がる。矮小な虫けらになったような心地。
それでもなお登る。あそこに着けば安心だと、“あなた”は不思議と確信している。なぜならあいつらは……
助けを求めるか細げな悲鳴。振り返ってはいけない。“皆”はもう脱落してしまった。
最早あいつらに食らい尽くされるだけなのだと判っていた。
あともう少し……!
背中を刺し抜く激痛。
“あなた”の視界はそこで暗転した。

 犠牲者の最期を体感したところで意識は元の部屋に戻る。探索者にとって、目の当たりにした風景は決して幻ではない、現実感を伴ったものに感じられる。そして和泉は今まさにあの世界に迷い込んでしまったのだという奇妙な確信を得る。恐るべき追体験をした探索者は1/1D4正気度ポイントを失う。
 大型犬用のケージには、マットや水飲み用の器等が置かれている。〈生物学〉に成功した探索者は、ラブラドールレトリバーは非常に抜け毛の多い犬種であるにもかかわらず、このケージ内には抜け毛が異常に少ないことに違和感を覚える。

 デスクトップパソコンを操作するには、ログインパスワードの入力が必要だ。何度か打ち込んでいると、「ヒント:携帯にメモ」とパスワードを忘れた際のコメントが画面上に表示される。
パスワードは和泉の新人賞受賞日である「20××0120」が設定されている。
 解析ソフト等を使ってログインすることもできるが、探索箇所の減少はドリーへの疑いを向ける機会の減少にもつながるため、積極的に推奨する手段ではない。プレイヤーから提案があった場合、キーパーは〈コンピューター〉の成功が必要なこと、解析終了には少し時間がかかること、ロールの結果によってはデータが破損する可能性があることを伝えるべきだろう。
 ログイン後はパソコン内のデータを調べることができる。〈図書館〉または〈コンピューター〉に成功すると、和泉が日記を綴ったテキストファイルを発見する。プレイヤーから日記を探す、あるいは適切な検索ワードの指定があった場合にはロールの成否にかかわらず見つけることができてかまわない。


■和泉の日記
11月○日
スランプ……誰か助けて……描けない
11月×日
担当のS君の声がコワイ。
12月△日
ブリーダーのN君から犬を貰った。縁ってあるものなんだねえ。
名前はドリーに決定!生後半年ぐらいらしい。
12月□日
そろそろタントラストラに手を付けてみようか。
今ならいい終焉を描ける気がする。
1月○日
アシさんたち以外の誰かと新年を迎えたのは久々だなぁ。
犬だけど(笑)今年もよろしく。
2月×日
ドリーとスノボに行った。サボりじゃない、取材だ!(多分)
2か月前
最近思いもしなかった着想がどんどん浮かぶので、筆のノリが絶好調!
1か月前
ひどい……ウイルス感染した……。パスワード類総とっかえ。
ついでに今まで4ケタだった金庫の方も一気に長くしておく。
最新刊のバーコード。(これだからセキュリティが甘いと言われるんだ)
数日前
ついに原稿が完成!
S君にお願いするか、同人出版にするか……。
まずは皆に見てもらうことにしよう。


◆リビング・ダイニング

 探索者たちが最初に案内される部屋である。
 ダイニングスペースには四人掛けのテーブルがあり、和泉のスマートフォンはその上に置かれてある。ロックの解除には4ケタのパスワードを入力する必要がある。ドリーの登録番号である「2357」がパスワードだ。待ち受け画面には雪原の上を駆けるドリーの写真が設定されている。ホーム画面には電話やメール、SNSのほか、メモアプリや画像閲覧アプリといったツールのアイコンが表示されている。その内のメモアプリを調べると、「PC:新人賞受賞日」と記されたメモを発見する。
 また、画像アプリを確認すると和泉が撮影した写真が保存されている。〈生物学〉または〈博物学〉に成功すると奇妙なことに気付く。写真に残ったドリーの身体の大きさや歯の汚れ、摩耗具合などが、どの時期でも同じように思えるのだ。この謎は、和泉の日記を読んでドリーが成長期を経て然るべき年齢だと知っている探索者にとって、さらに深い疑惑となる。
 来客用のソファーが置かれたリビングフロアには、大型のテレビと飾り棚がある。飾り棚には家主がこれまで獲得した賞のトロフィーや盾が置かれている。スマートフォンのメモを手掛かりに探せば、和泉がデビューして初めて新人賞を受賞した際の表彰状を見つけることができる。
 記された日付は20××年12月20日となっている。

◆書斎

プレイヤー資料:アイデアノート

 書庫とコレクションルームを兼ねた部屋で、木製の棚やスチールラックが所狭しと並んでいる。棚には数えきれないほどの漫画や小説、仕事用の資料の数々、アニメのフィギュアやプラモデルといったものが陳列されている。それらに埋もれるように、読書用の小机とリクライニングチェアが置かれている。
 小机の上には小さなリングノートがあることを確認できる。これは和泉のアイデアノートの日常の備忘録を兼ね備えたメモ帳だ。〈目星〉に成功するとその中から「携帯 ドリーの番号に変えた!」という覚書を発見することができる。時間をかけてアイデアノートを読み進めた場合も、同様の結果を得ることができる。
 「ドリーの番号」とは犬の鑑札番号のことだ。犬鑑札はドリーの首輪に取り付けられている。探索者が調べても、ドリーは抵抗することなくなすがままになっている。名前と飼い主の和泉の連絡先とともに鑑札番号が2357、と刻印されている。
 また、同じページには和泉が『峠のタントラストラ』の執筆中に浮かんだ構想や、アドゥムブラリの領域のイメージに引きずられたインスピレーションのメモが記されている。〈クトゥルフ神話〉に成功すると覚書の「イステ」という単語から『イステの歌』なる書物を連想する。アドゥムブラリと呼ばれる異なる世界に在る異質な種族と、彼らが作り出す催眠の術に優れた「捜し求めるもの」という存在が記述されていたことを思い出す。
 書斎で〈目星〉か〈図書館〉に成功すると、『ラブラドールレトリバーの飼い方』という書籍が人目に付かない裏の方に隠されているのを発見できる。
 本物の犬との齟齬を感じさせないよう、ドリーが目に付かない場所に移動させたのだ。本の内容自体に変わった箇所はない。
また、和泉の漫画も蔵書としてあるため、この部屋で調査を行えば彼の最新刊のバーコードを確認することができる。本の裏表紙を見ればバーコードの下側に978430X000006と振られたISBNコードがあるのが分かる。

プレイヤー資料:犬鑑札

9.探索の進行とイベント


 シナリオ内で金庫を開けるために必要な情報は全て入れ子構造になっているため、探索の流れは図のように進むことが多いだろう。パスワードを探し当てながら最後に最新刊のISBNコードまでたどりつけば、室内探索は終了となる。
 キーパーはその間、緊張感を維持するために以下のイベントを発生させるとよい。

狩り立てられる和泉
 探索の進行具合に応じて一定の頻度でアドゥムブラリが和泉へ攻撃を行う。キーパーは秘匿ダイスロールを行い、攻撃に成功した場合和泉のSTRとCONを1ずつ減少させる。

謎めいたドリー
 他の部屋での探索を行わず和泉に付き添う探索者がいた場合、一定のタイミングで[〈アイデア〉÷2]または〈生物学〉でロールを行わせる。成功した探索者は飼い主を見守るドリーを見ているとどこか落ち着かない気持ちになり、違和感を覚える。
 決定的な成功などロールの結果によっては、ドリーが極めて冷淡に、まるで実験動物を見るような目で和泉を観察していることに気がついてしまう。途端に黒い犬が得体の知れない存在に感じられ、底知れない恐怖心すら芽生える。探索者は1/1D2正気度ポイントを失う。

10.深淵へ

プレイヤー資料:バーコード

和泉の最新作のバーコードからISBNコードの978430X000006を打ち込み、カードキーを差し込めば、金庫は開く。
 扉の中には漫画原稿が乱雑に積み重なっている。その一番上に置かれたカラー原稿のタッチから、間違いなく和泉の手によるものだと確信できる。原画は主人公が眺めた崖上からの夜明け前の風景が微細な筆で描かれている。一目見ただけで不思議と中へ引き込まれそうな印象を与えるものだ。
 次の瞬間、探索者たちの意識はページの裏側へ引き摺られ、遥か彼方、異次元の世界へと遠ざかる。そこは酷く暗く、途方もなく広大な空間だ。
 探索者が立っているのは、大理石に似た材質でできた幅僅か1mほどの橋のようなものの上だ。その眼下には底知れない深さの奈落が続いている。
橋の後方は青みがかった靄がかかり、見通すことさえ困難だ。前方には高く切り立った崖がそびえており、暗闇の中その頂にだけ僅かに天から光が射している。
 突如目の前に現れた探索者の姿を見て、和泉は「助けに来てくれるなんて……!」と安堵の表情を浮かべて立ち上がる。孤独な恐怖から解放されて、ようやく気力がふつふつと湧いて来たのだ。同時に探索者は、彼を不安に陥れていたものたちを目の当たりにする。


暗闇に目が慣れてきたあなたたちは、眼下に何かが蠢いていることに気が付いた。
深淵の闇よりもなお昏く、どこか平面のようなのっぺりとした印象を与える生き物が、自分たちを「視て」いる。
その漆黒の塊はひとつのみならず、前に、後ろに、上に、下に、左右に、あらゆる座標に存在していた。
無数の影は長い触肢を伸ばしながら、こちらへじわじわとにじり寄ってくる。
その姿から、滲み出るような明確な悪意と獲物を嬲りながら追い立てる狩人のような愉悦を感じ取る。
まさに今自分たちは、この異次元の生物にとって脅かされ、蹂躙されるべき獲物なのだという奇妙な確信があなたを貫いた。

 生ける影、アドゥムブラリの群れを目撃した探索者は1/1D6正気度ポイントを失う。

アドゥムブラリ、生ける影
STR:-   CON:14  SIZ:28  INT:14
POW:14  DEX:10
移動:8  耐久力:21
ダメージボーナス:該当せず
[武器]線維状突起:30%、ダメージ:1D6STRおよび1D6CONの吸収
[装甲]なし。ただし現実世界の武器は無効。
魔力を付与された武器、POWまたはINTに効果を及ぼす呪文のみ有効。
[呪文]恐怖の注入(基本ルールブックp.256)
[正気度喪失]0/1D6

11.脱出

 以降は戦闘ラウンドとして進行する。戦闘処理はマップを用いて行う。マップ上でのコマの管理が難しい場合は、神話生物の攻撃回数等を簡易的に処理を行うこともできる。ただし大量の神話生物からの逃走劇というシチュエーションにおいて、数の視覚的効果は盛り上がりに寄与する部分でもある。できる限り危機的状況を演出できる方が望ましい。

深淵の世界マップ(マス目あり)
深淵の世界マップ(マス目なし)

 アドゥムブラリの初期配置は、図の★印となる。基本的に1ラウンドにつき3マスずつ和泉と探索者がいる方へ移動を行い、繊維質突起による攻撃を行う。神話生物の数は12体と非常に多いが、彼らは平面世界に位置していて、横方向への移動は行えても縦軸の移動は行えない。実際にその刺突が探索者たちに届く個体の数は、見た目より少なくなる。
 攻撃の対象はアドゥムブラリと隣接するマスに位置する探索者または和泉へランダムだ。
 和泉および探索者はアドゥムブラリの攻撃によりSTRが0になると立ち上がることができなくなってしまい、CONが0になると死亡する。親しい人間が急激に青ざめ干からびた死体と化す様を目撃した場合、探索者は1/1D6正気度ポイントを失う。そのため、CONが極端に低い探索者が多い場合は、神話生物の行動選択肢に恐怖の注入を織り交ぜてもよい。

【行程1】
 探索者と和泉は狭い橋の上(位置①)に立っている。最初のラウンドで行動としてそれぞれ[DEX*5]のロールを行う。成功すればうまくバランスを取りながら移動でき、1ラウンドで崖の麓(位置②)まで移動できる。失敗した場合は1ラウンド目の移動距離は半分まで(位置①´)となり、移動に2ラウンドかかる。
【行程2】
 崖を上るには、〈登攀〉に成功する必要がある。1回目の成功で中腹(位置②´)まで、2回目の成功で崖の頂上(位置③)まで登り切ることができる。登頂した探索者の意識は薄れ、次のラウンド開始時から現実世界で活動することができるようになる。

 深淵の世界へ行かなかった、あるいは既に帰還した探索者がいる場合、異界に精神を囚われた者たちの手助けを行うことができる。
 現実世界の視点では、深淵からの脱出行を行っている和泉や探索者が、床のカーペットの模様を辿りながらのろのろと歩いているように見える。〈アイデア〉に成功すると、彼らの目的地が部屋のベッドの上だと察することができる。深淵の世界から帰還した探索者はベッドの上で意識を取り戻しているため、自動的にそのことに気が付いてよい。手助けを行いたい対象のSIZの値と自身のSTRを抵抗表で戦わせ勝利した場合、対象の進行度合を一段階上昇させる。

 ただし現実世界の探索者が脱出の手助けを始めると、ドリーがその邪魔をする。恐怖に駆られ逃げ惑うアドゥムブラリの獲物を横からかっさらわれては興醒めなのだ。
 それまでシーカーは和泉たちの様子を見ているだけだが、現実世界に意識を置いた探索者が救助を始めたラウンドから、その探索者へ〈噛みつき〉による攻撃を行う。警戒していた探索者がドリーを寝室から引き離していようとも、まるで影から浮かび上がるように瞬時に現れるのだ。ただし、これまでの探索でプレイヤーがドリーに対し一抹の疑念も抱いていないならば、キーパーの判断によりシーカーに静観する選択肢を取らせても構わない。
 深淵の世界に意識のある全員が現実世界へ帰還した段階でラウンド進行は終了となる。

12.結末は紙一重

 救出を終えても、和泉の危機が去ったわけではない。捜し求めるものが傍にいる限り、何度でも同じことが繰り返されるからだ。
 和泉は現実世界へ帰還し落ち着くと、探索者たちに礼を言い、ドリーにも労わる素振りを見せる。本性を現したシーカーが探索者に攻撃を加えていた場合には深く詫び、愛犬を叱りつけながらも「普段はこんなことはしない子なんだ!だ、だから保健所行きだけは勘弁してほしい……頼むよ……!」と許しを乞う。
 いずれにせよ彼は飼い犬が常識外の存在だとは考えもしていない。また、精神が異次元にあった間の現実世界での会話や出来事も朧げにしか聞こえていない。キーパーはそのような演出を行った上で探索者の行動を見守り、結末を描写する。

エンドA:紙一重の先に掴んだもの

 和泉はたとえ突拍子もない話に思えても、命の恩人からの言葉を無下にはしない。探索者がドリーの存在への疑念を和泉に植え付けた場合、捜し求めるものは和泉のそばから姿をくらます。自身がアドゥムブラリの眷属であることを察知されずとも、普通の犬ではないのではないか、ドリーが今回の事件に何か関係しているのではないか、という可能性を吹き込まれたことで催眠にかけやすくするための無条件の信頼を損ねたと判断するためだ。
 様子を観察していたドリーは完璧なる犬の鳴き声、しかし異質な響きを漂わせた吠え声を上げると、瞬く間に姿を溶かし、カーペットの染みになるかのように黒い体を縮ませ、消失する。探索者は0/1D3正気度ポイントを失う。
 証左を見せつけられ、和泉は驚愕すると同時に探索者に深く礼を言う。そしてこの恐ろしくも得難い経験を糧にして、描き直した作品を仕上げてみせると約束する。
 日常の裏側に潜んだ恐怖に脅かされながらも紙一重で生還を果たした探索者たちは、1D6の正気度を獲得する。さらにシーカーを友人の許から退散させた功績により+1D3正気度ポイントを獲得する。

エンドB:記憶はヴェールの向こうに

 ドリーへの疑念を和泉へ話さなかった場合にこの結末を迎える。友人を救出できたことに安堵しながら探索者がマンションを出た瞬間から、つい今しがたの出来事はどこかヴェールの向こう側のように実感を失っていく。そして和泉を訪ねた日から一週間経ち、二週間経つ頃には、探索者はあのマンションで起こった出来事を緩やかに忘却していく。
 どれぐらい経った頃か、探索者は「漫画家和泉紀人(36)、自宅で死亡しているのを発見。衰弱死か?」というニュースを目にする。その知らせに哀しみを覚えこそすれ、誰ひとりあの時の出来事と結びつける者はいない。なぜなら、そんな記憶は既にこれっぽっちも残っていないからだ。
 探索者の現在正気度はセッション開始時の状態に戻されるが、親しい友人が奇怪な死を迎えたことで0/1D3正気度ポイントを失う。

エンドC:命運途切れて奈落の底

 和泉または探索者の誰かが死亡した場合、脱出行を終えたマンションの一室には哀れな死体が残されることになる。犠牲者の体液は吸い尽くされて干からびたミイラのごとくに化し、体には不気味に輝く斑紋が浮かんでいる。目は恐怖に見開かれ、異次元を見つめたままに固まった状態だ。警察が遺体を調べても、目立った外傷はないことから病死として処理される。
 和泉が命を落とした結末では『峠のタントラストラ』は遺作として刊行されるはこびとなり、以降巷では奇妙な孤独死が目立ち始める。もっともその頃には、あの休日の出来事は探索者にとってまるで酷い冗談だと思えるような、うすぼんやりとした記憶にすぎないのだが。
 この結末を迎えた場合、正気度の回復はない。

 いずれの結末を迎えた場合でも、探索者がアドゥムブラリの攻撃によって失ったSTRとCONは静養により1週間に1ポイントの割合で回復する。

参考文献
「深淵の恐怖」『暗黒神話大系シリーズ クトゥルー11』より ロバート・ロウンデズ作、岩村光博訳、大瀧啓裕編、青心社、1998年

公開:2019年6月9日